「どんな理由が有っても暴力は罪」と言う考え方は間違い©洪 経世

どんな理由が有っても暴力は罪と言う考え方があります。知る人ぞ知る「右頬左頬の法則」です。その人達の暴力の意味は物理的打撃の事です。しかし物理的打撃を暴力だとしてしまうと、生きてる事自体が暴力だとさえ言えます。右頬左頬の法則は一宗教の理念に過ぎず、現実に通用する話ではないのです。現実的に言えば、暴力の意味は、物理的打撃の事ではなく、他人の安全を侵害する物理的打撃の事、になると思います。しかしそこから様々な問題が派生します。どこからか侵害で、どこまでは侵害じゃないのか?音は暴力になるのか?声は暴力になるのか?車の騒音、工事の騒音、選挙の街頭演説は暴力になるのか?など。何が暴力かの判断は難しく、多数決の判断に頼る事になると思います。「他人の安全を侵害する物理的打撃が暴力だ」と言う考え方は時代にも地域にも、ほとんど左右されないと思いますが、どんな物理的打撃が他人の安全を侵害するものなのかの判断は、時代により地域により大きく違うかも知れません。話が最初に戻って「どんな理由が有っても暴力は罪」と言う考え方は間違い、と言う、その根拠は、予防接種とか手術が良い例えになります。予防接種は医者が病原菌を人の体の中に入れます。とんでもない暴力に思えますが、予防接種を暴力だと言う人はいませんよね?手術にしてもそうです。心臓の手術の場合は、胸の皮膚を切って骨を切断して、凄まじい暴力をふるっているように見えても、誰も手術を暴力とは言いませんよね?暴力でなければ成し得ない素晴らしい善、と言うものが現実に有るわけです。誰がどんなに否定しても、その現実は消せません。警官の犯人射殺もそれに似たようなものだと考えれば、納得できるのではないでしょうか。と言っても、手術も予防接種も、医者によっては悪に成り得るので、警官の犯人射殺も、それは有り得ると思います。暴力論、正当防衛論は、本当に難しく、切りがなく、奥深く、幅広く、優れた情報統合力(知能)が無いと扱えない高度な問題です。文明が発達すればするほど更に高度になると思います。©洪 経世